塾の合格率90%は本当にすごい?分母に潜む数学的トリック

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塾の「合格率90%」は本当にすごいのか?数学的疑問の出発点

平日は電車で職場へ向かっている。

満員電車に押し込まれ、自由を奪われた視線の先に、ふと飛び込んでくる文字がある。

「合格率90%突破」。

驚くべきことに、同じ車両を見渡せば、似たような高得点を叩き出している予備校や塾の広告が複数並んでいる。

自分もかつては受験生として塾に通っていたが、周囲の友人がこれほど高い確率で希望の学校に滑り込んでいった記憶はない。

もし、すべての塾が「90%」を実現しているのだとすれば、日本の受験界から「不合格」という概念は消失しているはずだ。

しかし、現実は残酷である。この乖離はどこから生まれるのか。論理のメスを入れてみたい。

合格率とは何か?分母と分子の定義で変わる確率計算

合格率 P の定義は極めてシンプルだ。

$$P = \frac{A (\text{合格者数})}{B (\text{受験者数})}$$

計算式に嘘がなければ、答えは一意に定まる。しかし、教育サービスというビジネスにおいて、この変数 B は、観測者の都合によって姿を変え、「定義が恣意的」に扱われる。

多くの塾が操作しているのは、分子の A ではない。分母である B の境界線だ。

例えば、「12月まで継続し、かつ直前講習をフル受講した生徒」のみを B と定義すれば、その手前で成績が振るわずにドロップアウトした生徒や、志望校を下げた生徒は計算式から静かに消去される。

これは統計学における「生存者バイアス」の典型例だ。

戦地から帰還した機体の損傷箇所だけを見て防弾パネルを貼るようなもので、撃墜された(不合格になった、あるいは諦めた)機体のデータは、最初から分母に含まれていないのである。

合格率90%の罠①:分母(受験者数)の恣意的操作の構造

さらに巧妙なのは、分母 B 自体を「受かる見込みのある層」に限定する手法だ。

いわゆる「特待生制度」や「選抜クラス」である。

入塾時に厳しい試験を課し、元から合格圏内にいる生徒だけを B の集合に囲い込む。この場合、塾の役割は「合格させること」ではなく、単に「合格するであろう個体を管理すること」に変質する。

彼らにとっての合格実績とは、教育の成果ではなく、いかに優秀な「分母候補」を青田買いできたかという調達能力の証明に過ぎない。

選択的サンプリングによって、B を極限まで絞り込めば、

BBselectよりP100%B \to B_{select} \quad \text{より} \quad P \to 100\%

に近づくのは、数学的には自明の理だ。

しかし、私たちが知りたいのは、その「純粋培養された世界」の確率ではないはずだ。

合格率90%の罠②:延べ人数で膨らむ合格者数という錯覚

一方で、分子 A にもマジックが施されている。
広告に踊る「早慶◯◯名!」という数字の正体、いわゆる「延べ人数」である。

一人の極めて優秀な生徒が、n 個の学部や大学に合格したとする。このとき、塾側の計算式では分子は A + n としてカウントされる。

Atotal=i=1mniA_{total} = \sum_{i=1}^{m} n_i

本来、一人の人間が座れる席は一つしかない。しかし、広告の数字上では、彼は何人分もの「合格」として増殖し、確率のバグを引き起こす。

読者が期待しているのは「自分がその学校に座れる確率」だが、広告が提示しているのは「塾が確保した椅子の総数」だ。この情報の非対称性が、満員電車の私たちが感じる「ありえない高確率」の正体である。

一人の天才が10個の椅子を占拠しているとき、9つの余剰合格が、実際の生徒数を水増ししてる。

統計の表面だけでなく真の確率を推計する“フェルミ推定”の思考

では、私たちはこの加工された数字をどう扱えばいいのか。

上司から不透明なプロジェクトの進捗報告を受けたときのように、私たちは「結果」ではなく「前提条件」を疑う必要がある。ここで有効なのが、手元にある断片的な情報から真実を推計する「フェルミ推定」の思考法だ。

例えば、ある塾が「早慶100名合格!」と謳っているとする。ここで以下の「ノイズ(注釈)」を掛け合わせてみる。

  • 延べ人数比率:1人あたり平均3学部合格と仮定
  • 特待生比率:実績の約3割が授業料免除の外部生と仮定
100×(10.3)÷323100 \times (1 – 0.3) \div 3 \approx 23

計算上、純粋にその塾の指導で合格した「実人数」は23人程度まで絞り込まれる。この「23」という数字こそが、広告の「100」よりも信頼に足る真数に近い。

誠実な教育サービスは、こうしたノイズを隠さない。合格実績に「実人数」を併記しているか、あるいは 1 – P の不成功者、つまり「不合格だった10%」の敗因を、生徒の資質のせいにせず、指導の限界として論理的に分析できているか。

優れたエンジニアがバグの発生原因を特定するように、失敗をデータとして直視している組織こそ、投資する価値がある。

結論:塾の合格率90%の正体と、本当に価値ある選択の示唆

とはいえ、私自身の受験を振り返ると、こうした数学的な分析すら、どこか空虚に思えてくる。

私は希望通りの進路を勝ち取ったわけではない。得意だった数学以外は、文字通り「爆死」した。合格率の統計でいえば、私は間違いなく「不合格」という負のデータ、あるいは分母から消し去られるべきノイズの一人だった。

しかし、その受験勉強の日々が無意味だったかと言えば、決してそうではない。

ふと思い出すのは、当時通っていた塾の、あの独特な空気だ。
自習室は常に満席に近く、ドアを開けた瞬間に、冷たくも熱い、ピリッとした緊張感に肌が粟立った。

ペンが紙を走る音だけが響くその空間に足を踏み入れると、「自分もやらないとマズい」という本能的な危機感が、静かに背中を押してくれた。

結局のところ、受験という事象の決定的な変数は、塾のメソッドでも、魔法のような合格率でもない。その環境において、本人がどれだけ「本気」のスイッチを入れられるか。その一点に尽きるのだと思う。

明日もまた、私は満員電車に揺られ、車内に氾濫する「90%」の文字を眺めるだろう。

だが、その数字の多寡に一喜一憂することはない。

もし、あなたが駅の広告に並ぶ数字に眩暈を覚えたなら、一度、その塾の自習室を覗いてみてほしい。

そこに流れる空気が、あなたの皮膚に「やるべきだ」と語りかけてくるかどうか。

統計上の確率論に身を委ねるよりも、自分の直感が捉える「場の熱量」を信じるほうが、この受験迷路の中で、迷子にならずに済む唯一の解なのかもしれない。

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